高校3年生で経験した悲劇の準優勝→ 大学1年生で経験した悲願の優勝…藤井一志のサッカー人生(前編)

”後半 40 分+ AT3 分東久留米総合先制”

無情にも電光掲示板の「0」の数字が変わる前に試合終了のホイッスルが鳴り響く。

劇的な幕切れで終了し、グラウンドには天国と地獄が体現される。

2019年11月16日。本稿では、この日に敗北を喫したチーム側の”ある男”に着目する。

ある男は部員100名を超えるチームの主将だった。

ある男は本気で全国高校サッカー選手権に出場するため戦っていた。

誰よりも走り、誰よりも声を出し、誰よりも闘志を剥き出しに戦っていた。

そして、ある男はラストワンプレーの末に儚く散った。

ある男の名は、”藤井一志”という。当時、東京都3部リーグ相当の東海大高輪台高校サッカー部の選手であり、主将でもあった。悲願の選手権出場をかけた戦いに敗北した翌年に全国制覇を成し遂げた男でもある藤井。そんな藤井のサッカー人生の歩みに筆者は興味を抱き、取材を行なった。

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第一章 サッカー人生の 1 歩目

 筆者が藤井に興味を持ち始めたのは2019年の全国高等学校総合体育大会予選2回戦の時である。何気なく藤井擁する東海大高輪台の試合を見に行ったことがきっかけであり、試合終了後の藤井の行動に筆者は脱帽した。この日、都立東大和に勝利し、チームは喜びに浸っていた中、藤井は軽く拳を上げた後、真っ先に敗戦チームの元に駆け寄り言葉を交わしたり労いの抱擁をする姿を見せていた。月並みの言葉にはなるが、藤井の印象を聞かれた際には『人間性が成熟しているナイスガイ』と、筆者は答えるだろうと思えるほどの男だ。ピッチ内外問わず熱い男は、いかにしてサッカーという競技に触れ始めたのか、淵源に迫った。

チェコ共和国に住んでいた時の藤井(写真:本人提供)

 飄々と藤井はサッカーとの出会いを話し始める。当時、藤井はチェコ共和国に住んでおり、時期的にもチェコの大砲と呼ばれた”パベル・ネドヴェド”の全盛期でもあった。憶測だが、そんな彼に影響されたであろうと高を括っていたのが本音だが、それすらも凌駕する安直な理由でサッカーを始めたと藤井は言う。

「4歳の時に父親から無理やりサッカーをやってみろと言われたので始めました(笑)。始めた当時、練習中にウルトラマンの真似をしてふざけていることが多かったです。なので、練習帰りに父親によく怒られていました(笑)。」

 あっけらかんな返答に少々戸惑いが隠せなかった。しかし、意外にも当時の薄い情熱がきっかけとなり藤井はサッカーにのめり込み始める。

「(父親に怒られることが)悔しいといつしか思い始め、いつの間にかサッカーに真剣に取り組むことになりました。僕、負けず嫌いなので父親に怒られることが嫌だったので(笑)。」

 結果的に父親の影響でサッカー人生を歩み始めた藤井。その後、本格的に取り組み、次なるサッカー人生の舞台として日本に拠点を変えることとなる。

第二章 ヴィッセル神戸伊丹U-15時代 ”人間性の形成”

ヴィッセル神戸伊丹U-15時代の藤井(写真:本人提供)

「小学生の頃からプロサッカー選手になりたいという夢がありました。そのためにもJリーグの下部組織でサッカーをしたい思いがありました。」

 中学生となり、藤井はJ1のヴィッセル神戸の下部組織であるヴィッセル神戸伊丹U-15に入団した。思い描く夢物語を執筆するかの如く、伊丹U-15で邁進し続けた。そして、この時期に筆者が思う藤井の印象が確立していく。

「レベルの高いところで毎日練習ができて、ライバルと仲間の存在やピッチ内外の意識が自分の中で確立しました。この意識は今でも繋がっています。」

 発言の背景には小学生時代の経験が関わっている。小学生の頃はピッチ内の練習中でチームメイトと喧嘩することもあり、これをピッチ外でも引きずってしまうことが多かったと話す藤井。しかし、伊丹U-15に入団してからは周囲の意識・レベルの高さに感銘を受け、ピッチ内外のメリハリがつくようになっていた。サッカーと同様に大事な部分である人付き合いの向き合い方をこの時期に習得し、今でも伊丹U-15時代のチームメイトと連絡を取り合っているとのこと。今でも親交ある仲だからこそ、チームメイトの活躍に対しても前向きに応援できるとも藤井は話している。

「伊丹U-15時代の仲間で活躍している子に対して素直に応援できる余裕も確立されました。名前を出すと、筑波大学でサッカーを続けている山内翔は過去に世代別日本代表としてワールドカップの経験もあり、さらにはデンソーに1年生から出場しているので素直にすごいと思っています。すごいと思うと同時に悔しさ、負けられない気持ちもあります。さらに、最近だと関東大学サッカー1、2年生の合同合宿があったのですが、そこで拓殖大学の加藤悠馬もメンバーに入っていました。彼とは中学卒業してから1番連絡を取るなかで、色々相談し合う仲でした。そういうメチャクチャ苦労していた選手が今回、関東(合宿)で選ばれていてすごく嬉しかったです。しかしながら、すごいなと思う気持ちと同時にやっぱり負けていられない、自分ももっとやらないと、と思う気持ちが多くて仲間から刺激をメチャクチャもらっています。自分ももっとやらなければ、追いつけ追い越せではないですが中学の子た力毎日のように意見をもらっていまだにそういうライバル関係でありながら、親友とも呼べる存在ですね。」

 伊丹U-15に入団したことは恐らくプロサッカー選手になるための手段としての意味合いだけに留まらない。このチームに入団しなければ藤井の潜んでいた葛藤、邪念を払拭できた時期が遅かったかもしれない。否、今もなお付き纏っていたかもしれない。順風満帆に適した環境で過ごす日々。月日が流れ、伊丹U-15としてのラストイヤーを迎える。

第三章 ヴィッセル神戸伊丹U-15時代 ”踏み出せない一歩”

ヴィッセル神戸伊丹U-15でプレーする藤井(写真:本人提供)

 伊丹U-15でのラストイヤーは頗る調子がいい状態であった。県リーグでは優勝、関西リーグに昇格となり、さらには西日本大会でも優勝を遂げたのである。

「大会中、ほぼ全試合スタメンで出場しゴールでチームに貢献できてメチャクチャ嬉しかったです。最後の高円宮杯に向けて(チームの)調子も上がっていました。」

 伊丹U-15の主力としてチームに貢献してきた。当時の様子を饒舌に話す藤井だったが、次第に勢みが消えていく。

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 高円宮杯の開幕。これまで主力として戦い続けた藤井はピッチ外に立っていた。松葉杖をつきながら戦況を見守る。半月板を損傷していたのだ。

「メチャクチャ悔しくて本当に心が折れて、サッカーしたくない、なんでサッカーやってきたんだろうって思っていました。本当に心が折れてしまい部屋で2日間泣きじゃくりました。」

 グランドフィナーレをピッチ外で迎える藤井。悔しさが滲み出るも藤井はチームのために、藤井のために戦っている仲間たちの姿を一瞬たりとも逸らさず見ていた。そして、常に前を向いていた。

ヴィッセル神戸伊丹U-15の仲間たち(写真:本人提供)

「当時のチームメイトから絶対に全国に連れて行く、お前の分も俺が結果を残すから元気だせ、と前向きな言葉をかけてくれました。チームが1つにならないといけない時に自分がクヨクヨしていたらダメだと気付かされました。(試合を見ていた時)なんで俺怪我したんだろうと多少は考えてしまいましたが、その時はその気持ち以上にチームが勝って欲しいと願う気持ちが強かったので、自分が率先的に声をかけることを意識していました。」

 伊丹U-15での3年間、そして最後の大会は良くも悪くも藤井のサッカー人生に大きく影響を与えた時期であった。プロを目指す選手としてはやはり自らのプレーで結果を出し、アピールしたい気持ちがある中で最後に一歩を踏み出せないことは無念の一言に尽きるであろう。綺麗事かもしれないがそれでも最後まで戦い続けた藤井は恐らく培ったピッチ内外でのメリハリを完成形まで成長させたに違いないであろう。藤井の想いを背負って戦った伊丹U-15だが、結果は虚しく関西予選で姿を消した。それでも藤井は全国の舞台で見るはずだった景色よりも輝かしい”何か”を見えていたに違いないであろう。チェコから始まり、兵庫で磨きをかけたサッカー人生。東京に拠点を移し、プロサッカー選手になるまでの物語の次なる章を執筆する。